とっさの「ありがとう」が言えなくて

 6限の最中、窓の無い教室にまさかの雨音が響いた。しかもかなり激しい。授業を終えると、もうすっかり暗くなった外を行く人たちはみな、傘を差している。数秒間の逡巡ののち、駅までの道を小走りでやりすごすことに決めた。
 以前アルバイトをしていたコンビニのお客さんを、都電の中で見かけることは多い。その人とは、昨日も帰りの車内で一緒になった。コンビ二は、もう一年以上も前に辞めていたし、わたしのことなんて覚えてはいないだろう(覚えてる覚えてないは別にして、「こんばんは」なんて話しかけるのも妙だ)。そう思い、かつてのお客さんに気付いても、見てみぬフリをすることにしている。
 電車の一番うしろに立っていたわたしの斜め前に腰を下ろした人物が、昨日も一緒だった“あのお客さん”であることに、わたしはすぐ気が付いていた。だけど、目が合えば向こうがこちらを「元コンビニ店員」として認識しているのかどうか判断できるだろう、よりも、それが分かったところでどうするのだ、という気持ちの方が勝っていたから、雨粒の張り付いた窓ばかり見ていたのだ。なんとなく、右の頬に視線を感じながら。
 電車が大塚駅に近づいた。彼が、傍の窓枠にかけていた自分の傘を、腕を伸ばして前方の手すりにかけたのを目の端で捕らえていた。傘の柄が手すりとあたった音が必要以上に大きいような気がした。電車が停車し、扉が開く。立ち上がったその人へ、自然と目をやるのよりもすこし早く、「これ、使っていいからね。」という声を聞いた。
 ほんの一瞬目があって、「えっ、えっ」と馬鹿みたいな反応しかできないわたしをよそに、その人の背中はあっと言う間に電車の外へと消えてしまった。

(あったことをそのまま書こうと思ったら、なんだか妙な間合いの文章になってしまった。常連のおじさん、おばさんには、ほんとうに良くしてもらったなぁ、と今にして思う。その人は、シャイな感じの人であれこれ話題をふってくるタイプでは無かったけれど、クリスマスの日になかなか売れなかった骨付きチキンを三本も買って行ってくれたことなんかを思い出した。わたしのことを、果たして覚えていたのかどうかはこの際どうでも良い。こんな親切をできる人間に、ならにゃ。)


カルヴィーノの『木のぼり男爵』についてのプチ発表終了。われながら、なかなか身のあることが提示できた。(と思う。)