小さな四角い窓から、満月の光といっしょに

 ダウンジャケットの前を、力士風情が漂うことを恐れて留めずにここまでやってきた今シーズン。日暮れた後に外出した今日、余計なことを考える間も無く、指がボタンをパチンと合わせていた。暖かかった。「志望の理由」とか、「PR」という言葉にうっと詰まってしまう今日この頃であります。(ダウンの開閉とは無関係。)
 

 昼間の疲れに押し倒されるようにして、すこしとろとろとしたようだった。ふいにベッドからほうりだされるような、からだが、無数の小さな手にささえられて宙に浮いたような感覚にゆすぶられて目がさめた。鐘。近くの教会の鐘が、夜中のヴェネツィアにむかってなにかを声高に告げている。時計をみると十二時だった。とはいっても、それは、鐘楼の時計が、ただ、昨日から今日への境目としての時間を告げる、というふうではなくて、二〇〇年まえのこの夜、輝かしい彼らの音楽史の一ページとして、はじめて自分たちの歌劇場をもつことになったヴェネツィア市民の狂喜の時間をここでもういちどかみしめているような、まるでうつつをぬかしたような鳴りかただった。そして、その鐘の音を、冬の夜、北国の森を駆けぬけるあらしのような拍手が追いかけた。建物の内側の拍手と外側の拍手が重なりあって、家々の壁に、塔に、またそれらのかげに隠れた幾百の運河に、しずかな谺(こだま)をよびおこすのを、私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかでじっと目をとじて聴いていた。
須賀敦子ヴェネツィアの宿』文春文庫(p17〜18)

初めて読んだ『コルシア書店の仲間たち』より、こっちの方が相性が良いみたいだ。コルシアの「私」は、あまり自分のことを話してくれない(他者の観察が多い)んだけど、ヴェネツィアは、こんな感じ。日記のタイトルも、上記抜粋部分の少し前に登場するフレーズを拝借。