自由な午後のすごし方

 スズメに襲われたことがあるんだ、と言ってもあまり本気にしてもらえないのだが、そこで諦めずに、駅に住みつくハトの「対ヒトセンサー」がほぼ無反応なことを引き合いに出すと、どうにか納得してもらえる。冒頭の「スズメ」は、通っている大学のキャンパスに生息する一群を指す。もう何ヶ月も前のこと、屋外のベンチでパンを食べていたら、一度欠片を放ったが最後、さっきまでは気配すらなかった二羽目三羽目が現れ、目の前で羽ばたいた。それにぎょっとしてパンを口に運ぶ手も止まったままでいると、そのうちの一羽が膝にのってきたのだ。昆虫に怯える自分を客観的に意識する際には、「ハハ…自分のほうが何百、いや何万倍も大きいのに…」という自嘲めいた気分を味わうこともしばしばだ。同様に、スズメが膝に飛び乗ったくらいで…と冷静にたしなめる自分の声も無いわけではないが、あのときの好戦的な羽ばたきと、右膝に残った感覚はやっぱり忘れられない。どうして今晩こんなことを書いているかというと、日中、公園を縄張りとする恰幅の良いハトたちに囲まれて怖かったからだ。
 美術館にでも入るつもりがどうも今日はそのチケット代をすんなり出す気分になれず、シンプルに散策だけして帰路に着くはずだったが、古本屋でちょうどチケット一枚分位の買い物をした。満足。

甜茶はじめました。

 もしも自分がカエルだったらノコノコと外に飛び出していたにちがいない、と思わせる陽気。誰が何と言おうと、今日は完ぺきな散歩日和だったのに、バイトのあとは何故かそのまま帰宅。もったいないよ、君。雑に、かつ中途半端に集めて散らかったままの情報を整理した。その都度片付ける、という習慣をつけなくてはいけない。
 明日の日中は、このどちらかに行ってみようかな。
紀伊國屋(新宿南店)「本と表紙とその関係」…12日まで。
http://www.takeo.co.jp/web/shop/showcase070115.html…9日まで。竹尾は前々から憧れつつ、なんだか素敵すぎて実際の訪問を果たせずにいる。

まいどあり

 バイト先のそばにある古本屋へ数ヵ月ぶりに行ったら、会計の際に「髪型かわってるから初め分からなかったよ」とにこやかに言われて、仰天する。“初め”もなにも、覚えていてくれてるのですね…と、人生で初めて行きつけの呑み屋ができたサラリーマンのごとき気分を味わう(想像だけど)。
 そのまま歩いてお茶の水へ。バイト代を下ろしてからあまり経っていないので、平時よりもやや強気な買い物をする。リトル・フィートの3rdとザ・バンドと、長いこと気になる存在だったサニーデイ・サービスもおまけに買ってみる(強気!)。サニーデイのマイペースな唄いっぷりに早く馴染めますように…。しばらく寝かせたらどうにかなっているといいな。ザ・バンドは歴史の予習を一切しないまま、初買いに臨んでしまった。

丹精

 昨晩のはなし。ひろがり続けるもやもやに黙って巻かれていたって良いことはひとつもないので、「この内容を登録」した後、御礼メールの送信作業にとりかかった。(サークル活動の延長線で、初めての「れっきとした社交の場」で大名刺交換会を体験してきたのだ。)去年はもう一生分のメールを送信したような気がしたが、今年もいよいよこれからだな…などと思いながら、わずか2通を送信して就寝。今日は、用で外に出ていた以外の時間はずっとコツコツと続きに取り組む。一体何を「よろしくお願い致します」なのか、という元も子もない疑問に支配されそうになるが、早くも届いた返信メッセージが嬉しくて、途中放棄せずに済んだ。こちらが得るものはあっても、むこうにお渡しできることなど無いに等しいようなものなのに、丁寧な返信が(想像していたよりもはるかにたくさん)届いて、ありがたいなぁと思ったのだった。とにかくメールには、いちいち心を込めよう、と心に決めた。会話も下手だしね、文章ならば時間がかけられる。

 「丹精」という言葉はずっと、「丹精込めて(99%の確率でこのあとは“作った”と続く)」という使い方しか知らなかった。そのため、銀行の傍の花壇に「丹精していますので踏み荒らさないで下さい」という札が立っているのを見たときはとても新鮮だった。たぶん七年前の出来事。
もや(略)は粗方消えたようだ。

ハロー、にがつ!

大工よ、

 成人式(何かおかしいと思ったら!)「成人の日」前日に行ってから一月も経たないのに、また髪を切りに。木登りが上手そうな仕上がり。気に入った。大きな窓のそばの椅子で、たっぷりの陽を浴びてのぼせてしまう。陽に射られるのは具合がわるい。女の子(もしかすると自分よりも若い)が、大学ってどんな感じですか、楽しいですか、キャンパスを歩いてみたいな、などなど、世間話にしてはなんだか真摯な瞳で問いかけてくるので、言葉を慎重に選びつつ応答してみたが、なにかもっと別のことが言えたらよかったのに、と思う。
 夜はスーツを着て、出かけてきた。もやもやの大量生産が行われて、どう収集をつけようか。

酸欠だもの

 ドアが閉まります、のアナウンスとともに滑り込んできたスーツ姿の若い男性。ドアが閉まるが早いか、手にしていた雑誌を開いた。水着姿で微笑むグラビアアイドルが眩しい。問題は、男性の呼吸があまりに乱れていたことである。

 読みたい聴きたい行ってみたい、がたくさんあって幸せ嘆息、な今日この頃。

表現の拙さは遺伝するのかしらん

いい曲だね。こんなの持ってたっけ?
 のろのろと出かける支度をする私に、こう問うたのは母である。昨晩、最後に聴いていたCDをそのまま朝のBGMにしていたのだが、どうもこれは聴いたことの無い代物だぞ、と気が付いたらしい。前の晩の、ヘッドホンにつないでの再生が初めてだったのだから、“聴いたことの無い”のは当然のこと。朝はテレビをつけない(動けなくなるので)代わりに、自室のアンプで音楽をかけてドアを開け放っておく、というのをほぼ毎日毎日何年も続けているので、いつからか彼女は得意気に感想を口にするようになった。たとえば、流れているのがナンバーガールだったりすると「あたしこれきらい」と言うし(ただしファーストは例外)、スピッツだと決まって歌いだすし(とても音痴なので、私は一瞬死んだフリをするという暗黙の掟がある)、ジョン・メイヤーを初めて聴いたときはやはりあの声が気に入ったようで「いい声だねえー」とかなんとか言っていた。ちなみにノイズを含まないギターものに対する反応は大別すると二つあって、ふつう「ウルサイ」と言いそうなものをひたすらノーコメントでやりすごすか、突然「ここがすき!」と言って私の表情を伺うというもの。そして、いわゆる“古き良き”音楽への反応が、一番薄い。たぶん、これには長きにわたり培われた免疫があるからだろう(もちろん発信源は父だ)。
 さてさて、今朝の彼女に「いい曲だね」と言わしめたのは、昨日の日記にも登場したベン・クウェラーである。2nd"On My Way"よりも胸きゅんフレーズが60%増といった内容で、放っておいても各曲につき最低1度はきゅんとさせてくれる手筈が整っている。アルバム冒頭から敵のワナに掛かってしまってしまうのも無理はない。かくいう私も、ひょいひょいと甘い小技をキャッチしていたのだが、だんだん、少しずつ冷静になってきて「甘いのはもうこのくらいでいいかな」という気持ちになっていく。(これが甘い食べ物とかだとちょっと気持ち悪いくらいでも手が止まらなかったりする…。)そうそう、2ndもすごく好きな曲が何曲かあったし、一曲一曲はどれも良いなぁと思うのに、いまひとつ繰り返し通して聴く対象にはならなかったのだった。ベン・クウェラーを食べ続けられないのはたぶん、力加減、味付け加減がどれもピッタリ一緒で、舌の感覚が膨張してしまうからだろうな。と、今朝の歯磨きが終わる頃、CDが止まったことになんだかホッとしながら思ったのだ。また、すこし寝かせてから聴こう。


 なに書いてるんでしょう私は。